2022年11月1日更新
KOKUGAKUJIN #8
兄は大学、弟は久我山、兄弟揃って國學院で教鞭をとる
Q 子供の頃は、どんなお子さんでしたか?また、どのような夢を持っていましたか?
浅野春二教授:
私も弟も武蔵野市の吉祥寺生まれです。八王子や相模原で育ちました。子供の頃は生き物が好きでカナヘビやオタマジャクシなどを飼育していました。中学では写真部に所属して好きな鉄道の写真を撮っていました。國學院大學久我山高校へ進学してからは鉄道研究部に入りましたが、先輩におもしろい人がいて、その先輩が糸魚川(新潟県)の保存鉄道活動に参加していたので、私も通いました。糸魚川の工場専用線が保存鉄道活動の拠点だったのです。線路の幅が2フィートの小型の蒸気機関車を整備したり、線路を敷いたり、ペンキを塗ったりなど様々な作業をしましたね。学校でもハンドカーやモーターカーを制作する活動に参加して、文化祭で走らせたんです。レールや枕木を借りる交渉に行ったり、それを保存鉄道活動でお世話になっている大人の人にたのんで、トラックで運んでもらったりしました。当時の久我山の鉄道研究部では溶接や木工、ペンキ塗り、レール・枕木の運搬・敷設などが活動の中心でした。
浅野光洋先生:
私も鉄道が好きで、幼い頃は長距離列車の車掌さんになりたいと思っていました。中学時代は兄と一緒に夜行列車に乗って北陸地方の軽便鉄道などを見に行きました。部活動は兄と同じで写真部です。生物の先生に勧められて毎晩のように高尾山でムササビの観察をして市の発表会に参加したことも中学時代の良い思い出です。高校は都立の学校に進学して、写真部と鉄道研究部とワンダーフォーゲル部に掛け持ちで所属していました。冬山へも登っていたんですよ。山頂からの景色は格別でクセになります。
Q 大学生時代は、どんな学生生活を送りましたか?
浅野春二教授:
大学受験が近づくと無性に本を読みたくなり、いろいろな本を読み漁りました。とくに日本の近現代の作家の作品はよく読みました。何がやりたいのか自分の中ではっきりしないまま、久我山から國學院大學に進学することにしました。とりあえずという気持ちで文学部文学科を選びました。文学作品は多様で、いろいろなテーマが盛り込まれており、そこから何か見つけられるかもしれないと思ったからです。1年の後期に倉林正次先生の研究会に入りました。研究会では源氏物語などの古典文学の研究をしながら民俗学のフィールドワークもしていました。大学3年の時に先生の調査の手伝いで台湾のお祭りを見ることになったのですが、はじめはただただ苦痛でした。ところが同じような祭りを2つ続けて見たので、2つ目のときは目が慣れてきたのか少しわかってくるんですね。すると俄然おもしろくなってくるんです。当時はそれが自分の専門になるとは思ってもみませんでした。私は現場が好きなのかもしれません。思い返すと高校時代の保存鉄道活動も大学時代から始めたフィールドワークも根は同じような気がします。現地調査でいろいろな方々にお世話になった分、それを何か形にしたいという思いで、研究を続けています。台湾のお祭りの現場に立ち続けたいので道教儀礼の研究を始め、中国語を始め、漢文も勉強するようになりました。はじめは日本文学と民俗学を学んでいましたが、大学院の後期に入ってから専攻が道教儀礼研究に変わりました。大学では漢文や中国語を教えています。
浅野光洋先生:
私は考古学がやりたくて國學院大學文学部史学科に進学しました。小学生の時、夏休みに担任の先生の家に行って、先生の家の畑で縄文土器や石器を拾ったことが考古学的なことに触れた最初だと思います。中学高校時代、國學院大學の考古学の大家である樋口清之先生がNHKの番組に出演されていたんです。その番組を見ていて考古学への興味が強くなり、樋口先生がいる國學院大學へ行こうと決めました。考古学が扱う時代は幅広いのですが、旧石器時代を研究している大学院の先輩に誘われて、遺跡から発掘された石器の整理を手伝ったことが旧石器時代の研究を始めた最初です。初めて発掘に行ったのは1年生の夏休み。3年生の先輩に誘われて長野県の湯倉洞窟へ学術調査に行きました。2週間ほど湯倉洞窟を発掘した帰り、そのまま埼玉県の遺跡に連れて行かれて、夏休みが終わっても学校へは行かずに埼玉で発掘を続けていました。10月の初めに一段落してからも休みの日や授業の無い日には埼玉に通って様々な遺跡を発掘して、その時に発掘調査のノウハウを叩き込まれましたね。その後も様々な時代の遺跡の発掘に参加しました。どの現場でも國學院で考古学を学んだ卒業生に出会いました。学生時代は、発掘調査の合間に大学に行って授業を受けるような生活でした。初めて行った湯倉洞窟の発掘調査には社会人になってからもしばらく参加していました。湯倉洞窟では縄文時代早期の全身骨格が出てきてニュースにもなったんです。大学を卒業してからは、東京府中などで発掘調査やその整理を続けながら國學院大學久我山で非常勤の講師を2年、その後、専任で久我山の中学と高校で教鞭をとりました。それからずっと久我山の中学と高校で社会科を教えています。
Q 先生が現在取り組んでいること、これからチャレンジしてみたいことは何ですか?
浅野春二教授:
最近は、中国の霊魂観について考えています。新型コロナの影響で台湾や中国大陸で調査するのが難しくなっているので、文献中心に研究していますが、なかなか複雑でおもしろいと思っています。やはり早くコロナが収まって、現地での調査を行いたいと思います。
浅野光洋先生:
若い頃に発掘調査をした場所へ行ってみたいですね。一緒に発掘をした地方にいる仲間とも会いたい。教員としては私自身が歴史を学んで楽しかったことを生徒たちに伝えていきたいです。できれば歴史の現場で追体験をさせてあげられればと思っています。実は中学で初めて担任を持ったクラスの生徒が國學院大學で考古学の教授をしているんです。教師冥利に尽きるというか、嬉しい事ですね。
Q 先生が大切にしている信条は?
浅野春二教授:
うまく言えないのですが、「わけのわからないものと向き合って、簡単に答えをださないこと」でしょうか。折口信夫先生は「何が書いてあるやら訣らないぼんやりとしたもの」とか「落ち着かない処」とかにしばしばこだわっています。その引っかかりかたというか、視線というか、そういうところがおもしろいなと思っています。「わけの訣らぬ」ものにどこか無関心でいられないことが、何かを生み出すきっかけになるのだと思います。
浅野光洋先生:
鐵志玉情。これは金田一京助先生の言葉です。私の場合、人生を貫く鐵のような志を持つことは難しかったかもしれませんが、玉のような情はこれまでたくさんの人から頂いてきました。先生、先輩、友人たちから様々に助けられて今の自分があります。人との繋がりはとても大切だと実感しています。生徒たちにも対しても玉情を大事にしていきたいと思っています。
Q 先生が考える國學院らしさ(KOKUGAKUJIN)とは?
浅野春二教授:
はやりの理論などに流されることなくしっかりと資料を読むところから始める。フィールドワークであれば、自分の欲しい情報だけを集めに行くのでなく、フィールドで感じて考える。時間のかかる地道な作業から出発するのが國學院大學の学風だと思います。これは私自身も先生方から教わってきたことです。私は大学で、弟は高校で教員になりました。実は私たちの父も祖父も國學院大學の教員でした。私たちの中に確かにKOKUGAKUJINの気質がある気がします。
浅野光洋先生:
学問的な部分は兄が言う通りだと思います。加えて、人の繋がりが強いのが國學院らしさでしょうか。國學院で学んだ仲間や先輩が全国にいます。生徒たちを連れて校外学習に行くと國學院を卒業した大先輩が丁寧に案内をしてくれるなど、様々な配慮をしてくれます。どこに行ってもどこかにKOKUGAKUJINがいて、温かく見守ってくれているんです。
浅野 春二
國學院大學文学部 教授
東京都出身
國學院大學文学部卒業
同大大学院を経て1996年に國學院短期大学(現 國學院大學北海道短期大学部)専任講師、國學院大學文学部助教授を経て2007年より國學院大學文学部教授。現在に至る。
浅野 光洋
國學院大學久我山中学・学高等学校 教諭(社会・地歴公民)
東京都出身
國學院大學文学部卒業
1985年に國學院大學久我山中学高等学校社会・地歴公民科講師として着任。
1987年に國學院大學久我久我山中学高等学校専任教諭、部活動運営部主任
中学校学年主任、社会・地歴公民科主任を歴任し、現在に至る。