2026年9月25日更新
KOKUGAKUJIN #23
「なんでもやってみる」の教えを糧に
たくさんの出会いと縁をつないで

「無血開城」と「なんでもやってみる」が信条
仕事や生活をするうえで、大切にしている信条が2つあります。1つが「無血開城」という言葉です。武力行使をせず、血を流さずに開城させるという意味ですが、「喧嘩はせずに、相手の心を開かせること」と解釈しています。どんな仕事にもトラブルはつきものですが、なるべく人とのもめごとはおこしたくない。摩擦を起こさずに物事を進める方法を常に模索しています。
2つめが、「なんでもやってみろ」の精神です。最初からだめだとあきらめずに、まずは口に出して、ダメ元で行動してみる。すると、到底できないと思ったことも上手くいくことが多いんです。もちろん、上手くいかないこともありますよ。それで落ち込んだり、反省したりすることもありますが、「まあ、仕方がないな」と切り替えて、次に進むことにしています。
一人旅の魅力に出会った子ども時代
この2つのマインドは、趣味である国内・国外各地への旅と、母の影響により育まれたところが大きいです。
人の出入りの多い家で育ったためか、子どもの頃から人見知りはしない性格でした。母が人好きで面倒見のよい性格で、「なんでもやってみる」精神の持ち主でしたので、自然にいろいろなことをさせてもらいましたね。「人のためにやってあげなさい。損得関係なくやってあげなさい」と口癖のように聞かされて育ち、その教えが染みついているようです。
人生を変えるきっかけになったのが、1970年の大阪万博への1人旅に送り出してもらったことです。ひと通り万博を楽しんで、「今から帰るよ」と家に電話をしたところで、親戚のいる東北方面へいく夜行列車が目に入りました。そこでふと「この列車に乗ってしまおう」と思い立ったんですね。列車のなかで知らないお兄さんたちと仲良くなって、「函館山で夜景を見よう」「札幌のラーメンおいしいぞ」「これから稚内に行くけど来るか?」と、北海道各地を一緒に巡り、いろいろな人の家に泊めてもらいながら、結局3日間の予定の旅行が10日間になりました。中1か中2のときのできごとです。
この経験をきっかけに「旅」の魅力に取りつかれ、以降、国内各地を旅してまわりました。

青函トンネルの開通を見守った青年期
印象に残っているのは、青函トンネルができていく過程を数年かけて見守ったことです。青函トンネルの本を読んだことで、「どうしても見てみたい」と何の計画もなしに青森県竜飛岬まで行きました。当時は、青函トンネルの掘削が始まって間もない頃で、工事の真っ最中です。もちろん、一般人が簡単に入れる場所ではないのですが、たまたま声をかけてくれた人が顔利きの方で、特別に工事中のトンネルのなかへ入れてもらいました。それがきっかけで、1~2年に一度の頻度で通うようになり、だんだん掘り進んでいく様子を見守りました。最後に「すごいのができたから」と見せてもらった場所が、後に新幹線が通るトンネルです。「新幹線が通るのは何年先かわからないけど、ここに来たら思い出せよ」と言われ、約束どおり、2016年北海道新幹線開通の一番列車に乗り、この場所を通過しました。思わず、お世話になったオヤジさんがここで手を振っている姿が目に浮かび、万感の思いで胸がいっぱいになりました。
中学生の一人旅は今では考えられないかもしれませんが、当時は世の中もまだまだ寛容で、初対面の人と気軽に声を交わしながら共に旅を楽しむ余裕がありました。駅に降りるたびに匂いも言葉も異なり、とても勉強になりましたね。
旅の経験と母の教えが人生の糧に
これまで、国内各地を巡り、たくさんの人と出会い、ご縁ができました。
旅を通して得たのが、「人との付き合い方のコツ(?)」です。親切な人、気難しい人、ときにはちょっと変わった人と交流を重ねるなかで、「この人にはこういう風に接するといい」ということが自然とわかるようになりました。この直感は、仕事をするうえで非常に役立っています。営業として新しいスポンサー契約を交渉するとき、何かをお願いしたり、言いにくいことを伝えたりするときなど、アプローチのポイントが見えてくるんですね。
同時に、母の教え通り、「損得勘定を抜きにした人付き合い」を大切にしてきたことも、私の糧になっています。仕事では、見返りを求めて行動することを求められがちですが、「今回ダメでも、また次がある」という気持ちで臨むんです。メインストリームの考え方ではないかもしれませんが、そういう人間だって世の中に必要ですよね。
そのおかげで、仕事を退いた後もお付き合いが続いている方が多いんです。「会社の看板がなくなった途端にさよなら」は、さみしいじゃないですか。看板がなくても付き合える関係性は、私がずっと望んでいたものだったので、うれしいですね。
母の「なんでもやってみよう」の教えが、様々なチャンスと出会いを引き寄せてくれたのだと感じています。ちなみに、そんな母はすでに他界していますが、生前は、いろいろな趣味の会に参加したり、エキストラで映画に出演するなど、毎日アクティブに過ごしていました。

引退後はなりたかった小学校の任用職員へ
國學院大學に入学したのは、歴史が好きで、先生になりたいと思っていたからです。法学部で国際法を学びながら、在学中に中高の教員免許を取得しました。大学時代のいちばんの思い出は、ゼミの先生の助手として、本学で行われ日本中から著名な先生方が集まる国際法学会に携わったことです。また、オランダ・ハーグにある国際司法裁判所にも、先生の紹介で訪れることができました。家庭教師や焼鳥屋などでアルバイトもしつつ、充実した学生時代を過ごしました。
卒業後は、ラジオ日本で報道や営業を7年務めた後、日本テレビにキャリア一期生として採用されました。ここでは、スポンサー、政財界、広告会社など多種多様な業種の関係者と関わりました。日本テレビは系列局が多く、全国の社長さんや地元関係者とお会いする機会があったので、人脈が広がりましたね。テレビで25年間務めた後、いつの間にか日本テレビのグループ会社になっていたラジオ日本に戻り、社長や会長を務めることになりました。
そして現在は、小学校の特別支援学級の任用職員をしています。先生方の授業や子供たちのサポートをするのが主な役割で、2年生から5年生までの個性豊かな児童を担当し、毎日学校に通っています。きっかけは、引退して「明日から誰からも声がかからず手帳が真っ白になるのかな」と少々ブルーになっていたタイミングで(笑)、知人から「教員募集しているよ」と声をかけてもらったことです。昔からやってみたかったことがこんな形で叶うとは、願ってもないチャンスでしたね。子どもや孫の世話をするような気持ちで、愛情こめて仕事をしています。
大事なところに全力を出すメリハリが國學院らしさ
國學院時代の仲間とは、今でも連絡を取り合います。受験番号が隣だった友人は、実は小学校、中学校、高校、大学がすべて同じなんです。彼は、百貨店で長く務めた後、経験や人脈を生かした仕事を今もしています。私が入学したとき、國學院には少なからず「地味」「真面目」という印象があったんですね。とはいえ、この友人を含め、私のまわりにはチャレンジ精神や向上心をもつ仲間が多かったといえます。一方、「大事なところはきちんと押さえて真面目に取り組む」実直な気質も、國學院らしさでしょう。振り返れば私自身も、仕事のうえでこのような振る舞いを信条にしてきました。
これからの「國學院らしさ」は、学生たちが現在進行形でつくりあげるものです。最近の國學院は、スポーツでの躍進も目立ちますね。駅伝、野球、柔道など、大会で活躍することが増えていて、OBとしても誇らしい気持ちです。まさに今、次の「らしさ」を学生たちが築き上げている段階なのでしょう。学生のみなさんも、どんどん欲を出してチャレンジし、「國學院らしさ」をつくっていってください。

これまで培ったご縁を生かし大学の活動に貢献したい
今後の目標は、今までつないできたご縁を別の形で生かしていくことです。卒業後、しばらく母校と関わりがない時期もありましたが、日本テレビ時代に箱根駅伝の運営業務を務めたことで、初出場の時、予選会で現場に立ち会ったり、ラジオ日本でも中継で國學院の支援に携わるようになり、現在は評議員の仕事も務めています。今後も、大学に恩返しができるような活動をしたり、学生に自分の経験を話したり、いろいろな形で関わっていきたいと思っています。
そのためには、まずは健康第一。様々なことにこれからもチャレンジし、2人の孫の成長を見守りながら、元気に過ごしていきたいと思います。

田畑 善朗
國學院大學 法学部 昭和55年度卒業
東京都出身
卒業後、ラジオ関東(現ラジオ日本)入社。制作、報道、営業を経て、日本テレビに移り、事業部長、営業局次長を歴任。その後、ラジオ日本代表取締役社長、同会長を務める。現在、大田区立道塚小学校 特別支援学級任用職員。